先月、ドバイでの水彩のワークショップをとったときに、
いろいろ勉強になったけれれど、
なるほどと、うなったのは、プロの画家さんのひとことだった。
絵の中にあるものはすべてが、相互に関係しあっていなければならないということ。
いままで、11年描いてきたけれど、
それを、あまり、考えないで描いてきた。
画面の中にあるものがどこかで、
コネクションをもってつながっているようにするというのは、
結局無意識にしていたようにもおもうけれど。
なるほど彼の絵をみると、ほんとに
すべてのモチーフが見事につながっている。
それが、見る側の心地よさになるのだろうと
11年もやっていて、納得するというのは、おそすぎないか。
まー遅くてもいい、気づいただけまし。
今日の絵は、その画家さんのレクチャーのあと、ホテルにかえって、
夕ご飯までの散策をしているときのドバイの下町の通り。
私は一人で歩いていた。
どこかで、サンドイッチでも買おうと歩きまわっているときに、
人々でごった返す、レストランやカフェがあつまっているところにきた。
家族で、夕食をとるひとたち。
友達同士で、仕事の後を楽しむひとたち。
小さな子供を追いかける母親やら、
仕事仲間と楽しそうにしているひとたち。
私は、その中の誰一人として知っている人はいなかった。
言葉に尽くしがたい、孤独感だった。
この絵を仕上げているときに、その時をおもいだした。
私たちは、どこかで、つながっていることで生きていけるのだろうと。
私たちの人生も、絵も同じなのだろうと思う。
画面にあるすべてのモチーフが少しずつ、コネクションをもっていないと、
見る側が心地よさを感じないように、私たちも、だれかと少しずつ関係しあってることが
生きているうえでの心地良さにつながるのだろうとおもう。
しばらくたちどまって、
たくさんの人々が行きかう姿をみていた。
こんなにたくさんのひとたちがいるのに、
私が知っている人は誰もいなかった。
私を知っている人も誰もいなかった。
半端ではない孤独感だったけれど、あのことから
随分たくさんのことを学んだ気がする。
春休みに入り、
レッスンは一時お休みするひとがふえて、ちょっとさみしくなったが、
まだまだ、しょうもないもんで、いっぱいの倉庫のかたづけに
集中できるようになった。
後、4日で、どこまでできるか。
ここにきたころは、新聞をとっていたけれど、
今は、もう、新聞も、オンラインで読むようになった。
すぐに目にいくのは、
シリア情報。
何で、シリアかというと、
一人の生徒さんが、シリア人というのもある。
大丈夫なのかときいたら、僕のところは、大丈夫だという。
それとも、あまり話しはしたくないのかもしれないと、
それ以上はきけなかった。
自分の政府に殺される国民。
血にそまり、泣き叫ぶ子供を抱く親の写真が並ぶ。
ああいうものをみると、
自分の力のなさというより、
逆になんて私は、幸せなのだろうと不謹慎にもおもってしまう。
わたしたちは、幸いにも、自国の政府に爆弾で殺されるようなことはないのだから。
それをおもうと、
ほんとに生きているだけで、まるもうけだとおもわずにはいられない。
毎日の生活のなかで、怒ったり、落ち込んだりを、不満をもって、うだうだしたりが
どれほどくだらないか。血に染まった子供を抱くほどの、悲しみにくらべたら、
すべてのことは、ほんとにとるに足らないことなのだ。