Thursday, October 26, 2017

待つこと






豪華なリビングがいくつもあって、
どこもかしこも
ハリウッドスターのように飾られていて、
それを、いくつも
通り抜けると、絵を描く部屋にたどりつく。
そう、たどりつくということばがぴったり。

まるで、公園の中に家を建てたかのように、
広い緑の庭がひろがる。
トイレは、私が、大阪で住んでいたアパートよりひろく、
美容室のようにシャンプー台が輝く。

運転手さんがいて、お掃除の人がいて、
ベビーシッターさんがいて、料理の人がいる。
誰もが、振り向くほどの美貌をもち、
イケメンの息子さん。
何、不自由のない生活。

こんな生活、ほんとに、している人がいるんだと、
彼女の家に行くと、ほんとに、溜息ばかり。
しかし、昨日は、内情をきいておどろいた。

ファテイマさんが、息子だと何年も言っていた10歳の子は、実は、彼女の兄の子どもだという。結婚もしていないという。
兄は、離婚。
兄もその元嫁も、再婚。
残された、男の子行く末を心配した
彼女が自分の息子として育てることにしたという。
自分の人生を捧げる。
半端な気持ちではできない。
わたしがそんな境遇になったとき、どうするだろう。
わたしには、できないとおもった。世の中には、どうしてこう、潔いよい人がいるのだろう。


どんなに、満ち足りていそうでも、
ほんとの内情は、はたからでは、まったくわからない。

年老いた親の面倒をみている人、
LGBTで社会からの冷たい目で苦しんでいる人も、
犯罪者を身内に持つ人の苦しみ、わけのわからない
病気におしつぶされそうになっている人とか。
はたでは、人々がどんな大変なものと向き合っているのは、
決してわからない。
経済的に恵まれることは、もちろん、大切なことだけれど、
それだけがすべてではないのだ。


人の立場を完璧に理解することなどできない。
それは、不可能だ。
でも、それをしょうがないことと、悲観することはない。
肩をならべて、ともに、歩むことはできるのだからという、
先日ポストした、Michele L. Sullivanの言葉がまた、めぐってきた。

ファテイマさんは、ボランテイアに力を注ぎ始めたという。
人の立場に立つのではなく
そっと、寄り添って、支えてあげることができる人なのだとおもう。
私も、彼女の生活を理解することはできないけれど、彼女が
大好きな花の絵を描くお手伝いをさせてもらえることで、少しでも、Micheleの
唱えることに近づければと思う。
などと、きれいなことを言っているけれど、実は、
広大な庭のあちこちに、産み落とされた鶏の卵を広いながらの散歩。
これほどの贅沢があるだろうか。
などと、ついつい、邪念が湧く。


では、また。
よい1日になりますように。








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