Saturday, January 20, 2018

Indigo blue 2





人を好きになってしまうことに理由などないのではないかとおもう。

言い訳があれば家族にすればいい。
世間に拡声器を使って、人を好きになったいいわけを言う必要性はない。
言い訳などだれも、聞きたくはない。
恋ってそんなもの。
いくつになっても、熱い思いを持っていたいと思わないひとなどいない。
その熱意が仕事に向けられたり、家族に向けられたり、友人にむけられたり、異性にむけられたり、動物に向けられたり、趣味にむけられたりする。
生きているうちに、いろんなものに出会う。
好きな人にであうというのは、その中のひとつで、だれにも止めることができない。



もし、自分の旦那が、50分も延々と、不倫の言い訳を涙を流しながら、しゃべったらどうだろうかと想像してみた。
多分、15分くらいまでは、我慢するかもしれないがあとは、柱にでもしゃべればというだろう。君が妻として役にたたないから、ほかの人を好きになったんだ。君は、料理は下手だし、英語は進歩しないし、愛想はないし、あれもできない、これもできないと、並べ立てるられるより、ごめん、あの人のことが好きになってしまったんだと、手短に言われたほうがどれだけ気持ちいいだろう。

そうかー、そうよねー。私から見たって、素敵だものね、なんて思えるような人に、心を奪われていてほしいと思う。
そんな、ひどいわ、わたしのどこがいけないのよ!!!
なんて、悲劇のヒロインみたいなことを私が、家人に万が一訪ねたときに、(   多分いわないとおもうけれど )、
男は、その質問に答えればいいのであって、きかれてもいないことをペラペラとしゃべるというのは、うどんに七味は、かけないで食べるタイプなのに、勝手に、一緒に行った人に、かけられてしまったようなものなのではないかとおもったりする。

先日偶然にも、男の涙のことを書いた。

幸せの黄色いのハンカチという映画で、高倉健が、警察に連れていかれる電車のなかでの、涙のシーンは、今でも強く心にのこっている。

男は、静かに涙を流す。
そして、多くを語らない。
涙のわけを、言葉で表すほど、雄弁であってはならない。
というか、ほんとのことは、雄弁には語れないのではないだろうか。

妻の病状をしゃべってしまうとき、だれが一体得をして、だれがそうでないのかを、
考えたほうがよかったのではないだろうか。
もし、自分がなりたくもない病気になって、家人が妻はあんなになったもんでと、
世間に言いふらしていたとしたら、それは、許されることではないように思う。
償いなどいらない、ただ、しゃべってほしくなかっただけだというだろう。













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